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明治時代の戦争を特集します
日本海海戦の概要
日本海海戦が起こった経緯、戦況、勝敗など。
対馬沖海戦ともよばれる。
日露戦争開戦当初から海戦の焦点となっていたロシア・バルチック艦隊の参戦。
主力となる戦艦の数では日本の連合艦隊が4隻なのに対して、ロシア・バルチック艦隊は倍の8隻。当時世界最強といわれていたこの艦隊をはたしてどう迎え撃つのか?
仮に制海権を奪われるようなことがあれば、それは大陸で戦う陸軍への補給が断たれることを意味し日露戦争の戦況は大きく悪化する。
つまり、戦略上負けは絶対に許されない戦いであった。
1904年(明治37年)10月15日に、バルチック艦隊はバルト海リバウ軍港をいよいよ出港。
目指すはウラジオストク基地。
べトン(コンクリート)の防御力と要塞砲の攻撃力を持つ基地に逃げ込まれれば、
その攻略が困難をきわめることは旅順要塞攻略戦を持ち出すまでもなく明らかである。
さらにいえば、戦艦への物資補給・メンテナンスが行なわれてしまい、
ウラジオストクを拠点としてバルチック艦隊が主体的に攻撃を仕掛けてくるようだと、
日本はシーレーン防衛が不可能となる。
日本側としては、ウラジオストクに入港させる前に海上でバルチック艦隊を撃破しなければならない。
ちなみに海戦前に、太平洋を北上してくるバルチック艦隊をどこで待ち伏せるかが議論となった。
対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡で総司令部の意見が割れ、天才参謀・秋山真之も明確な答えを出せないなか、後に元帥海軍大将となる島村速雄が「敵に海戦というものを知っている提督が一人でもいるのならば、必ず対馬を通る」と断じ、総司令官・東郷平八郎も迷うことなく対馬で即決したエピソードはあまりに有名である。
1905年(明治38年)5月27日、哨戒艦「信濃丸」が九州西方海域にてバルチック艦隊を視認。
4時45分に世にいう「敵艦見ユ」、その後「敵艦隊二百三地点ニ見ユ 敵ハ東水道ニ向カウモノノ如シ」を通報する。
報告を受け取ると、東郷平八郎は全艦に出撃命令を下す(5時05分)。迎え撃つ場所は、総司令部の読み通り対馬であった。
この時に連合艦隊から大本営に向けて打電された「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」のうち、「本日天気晴朗」以下は参謀・秋山真之によるものとされ、非常に簡潔かつ的確な名文として現在でも高く評価されている。
また、Z旗に込められた文章「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」も秋山によって作成されている。
対馬海峡では、バルチック艦隊とすれ違うと見せかけて、直前で左回頭する「丁字戦法(T字戦法、トーゴーターン)」で進路を遮断し、バルチック艦隊を一方的に砲撃。
日本海海戦のために訓練して精度を向上させた砲撃術と新開発の「下瀬火薬」で、ロシア側に大打撃を与える。
結果、連合艦隊の損害3隻沈没にたいしバルチック艦隊は21隻沈没という、世界海戦史上類をみない完全勝利をおさめた。
日本海海戦は、制海権の制圧という当初の目的だけではなく、完勝という内容で講和へのきっかけとなったことでもきわめて重要である。
日本海海戦の写真
当時の戦場の様子などを伝える貴重な写真を紹介。
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